炎上と舐められる人間の生き方

どうもこんちまんです。

ブログを書いていこうという意欲が2回で消え失せてしまいました。

ザ3日坊主人間です。

こんな口から出まかせ人間の言葉なんて誰にも響きません。

道理で会社で意見を言っても採用されないなと思っていました。

 

そこで、今回は前々から感じていた「言葉と人」の関係性について書いていこうと思う。

 

ヨダレを垂らしながらネットニュースや5chまとめを見ていると、何かに対して意見を言って叩かれている有名人を見かける。所謂炎上というやつです。

炎上は私という無価値な存在以下の人の形をしたヒマ汚物によってなされるのですが、その炎上の中には「言ってることはそこまで間違っていないのに必要以上に叩かれている有名人」もいます。

 

一時期炎上していた岡村隆史さんの「嫌なら見るな」発言も、100日後に死ぬワニの件も、そんなに叩かれることなんかなって個人的には思います。

 

そして、一度このように炎上した有名人がその後、何かについて意見を言ったりすると、めちゃくちゃ叩かれる傾向にあります。

 

そう結局のところ、ここいらの人間は「その意見」が正しいかどうかより「誰が言ったか」で賛成か反対かを決めているのです。

少なくとも私の周りでも思いつく限りそういう人は何人もいます。

社内で誰かが言った意見を聞かず、その人が大好きな人が同じ意見を言ったら「いいね〜」と採用するような人たちです。

 

こういう人たちは何を考えて生きてるのでしょうか?

全く理解できないと切り捨てたいところですが、うちの会社にもいるので、少しわかってあげようかと思います。

 

この人たちが大事にしてることとは、その意見が正しいかどうか、よりも「自分の正義が正しいかどうか」だと思います。

その意見がどんな内容であれ「自分が信頼してる人が言うから正しいと思いたい」という、結局のところ、自分が正しいと思いたいマインドから、そのような動きをします。

まるでプライドのカケラも見えない行為ですが、厄介なことにプライドの高さが原因でこのような思考停止ムーブをかましてくるのです。

 

ではどのようにすればこの人たちに意見を通すことができるのか?

先に言った通りプライドが高いので論破してもなにかと理由をつけて意見は採用されません。

ポイントは敵対ではなく、あくまであなたの味方ですよっていう立ち位置を確保することです。

具体的には、意見を伝える前に、あなたと私が戦う相手は一緒ですよっていう点を明示することです。

その人が悩んでいそうなことをテーマにあげて、自分もそれで悩んでるんですと言ってから、一緒にやりましょ感を出します。

すると不思議とその人は自分の味方に段々となっていきます。

味方になったらあとは実践です。

信頼を勝ち取るため、その人の喜びそうなことをガンガン進めていきます。

そして、逐一悩みを聞いていきます。

ここまでやって、ようやく意見を言いましょう。

するとその意見はあなたの意見ではなく、その人と共同で作った意見になります。

ここでプライドの高さゆえに二つの効果を発揮します。

・俺と一緒に作った意見だから正しいはずだ

・俺と同じ意見だからこいつは信頼できるやつだ

という2種類の効果です。

本当にプライドばっかのグズやろうは面倒ですが、ここまでやってようやく意見が通ります。

ここまでやらないとその人に意見を通すことはできません。

 

悩みを共通のものとして認識させる

時間をかけてゆっくりと一緒に相談していく

(その人に言わせるようにしたらベスト)

意見を具体的なものとして具現化させる

 

このプロセスを構築していけば、プライドの高い汚物でも説得することができます。

 

言葉の重みはその人の印象や実績、立場、バックボーンで変わると言いますが、それは実生活でも一緒です。

 

私のように舐められる人間はこういう面倒な生き方をしていかないといけません。

面倒な世の中ですね。

頑張りましょう。

 

 

なぜ人は競馬に夢中になるのか

明日、競馬の祭典「日本ダービー」が行われる。

 

僕は競馬が好きで毎週のように賭けて楽しんでいる(お金がないので一回あたり1000円前後しか賭けていない)

競馬を身始めたのは2016年の日本ダービーからなので5年間どっぷりハマってしまっている。

それまで全く興味のなかった自分がなぜこんなにもハマってしまったのであろう

今回は競馬の魅力について書いていこうと思う。

 

 

1、許せるギャンブル

いきなり無粋なところから入ってしまうがやはり賭け事である点は競馬の魅力の大きな要素だと思う。

事実、僕が競馬を始めたきっかけは一切合切お金のためである。

そして現時点で15万円以上は負けている。

でもここでやめてしまったら、負けたまま終わる。僕はやめない。

日清食品の2代目の社長である安藤宏基の言葉にある通り「負けたくないのなら勝つまでやめないこと。それが唯一の勝利の方程式」なのだ。

僕も勝つまでやめない。

 

話は逸れてしまったが、人間は賭け事が好きだ。

当たるか外れるかの勝負で当たりを引いた時の幸福感は何事にも変えられない。

昨今のスマホゲームでもガチャシステムがスタンダードだ(この風潮は大嫌いだがそれはまた別の機会に)。

要するに人間はいつの時代も形を変えて賭け事を楽しんでいる。

 

そんな中、日本でお金を賭けれるギャンブル、いわゆる公営ギャンブルは「競馬」「競輪」「競艇」「オートレース」「宝くじ」の5つだけである。

そして、この中でも競馬は明確に異なるところがある。

馬が走るということだ。

 

馬は可愛い。

馬は愛くるしい。

馬は無邪気。

 

だから外れても許せる。

これが他の公営ギャンブルより一般に浸透している理由であると思う。

 

そう外れた時に「もうしょうがないなぁ」ってなるのだ。

 

馬に乗っているジョッキーに対しては「何やってんだぁ!!」なのに、馬に対しては「もうしょうがないなぁ」である。

 

外れたときの納得感、ほぼ八百長の入り込むことのない公平性、ほっこり感。

競馬は、他のギャンブルと一線を画す「許せる感」を持っている。

 

 

2、ドラマがある

競馬では数々の名ドラマが生まれる。

 

有馬記念11着からケガで1年の休養明けの重賞レースで優勝したトウカイテイオー

 

どこまでも逃げていく快速の逃げ馬サイレンススズカのレース中の骨折。

 

終わったと言われている中の引退レース、有馬記念で見事優勝を果たした芦毛の怪物オグリキャップ

 

馬自身はドラマを生み出そうとしているわけではない。ただ単純にゴールを目指し走るだけだ。

それなのにどうしてもなお、ドラマが生み出されてしまう。

それらは意図されたものではなく、いわば運命的に出された結果であり、人はそんなドラマに惹かれ、競馬という台本のないストーリーに酔いしれるのだ。

 

 

さて、ここで一つ、紹介させて欲しい。

JRAが作成した「夢の第11レース」というCMがある。

競馬ファンにはあまりに有名なCMである。

 

実際に見てもらうのが一番だが、内容を説明すると、歴代の名馬と呼ばれる馬たちが、世代を超えて一つのレースに集まるのである。

「もしも同じレースに出てたなら」というまさに競馬ファンの夢をCGなどを駆使して映像化した作品である。

 

先に話したサイレンススズカオグリキャップ、競馬を知らない人でも名前は聞いたことはあるだろう日本競馬の至宝ディープインパクトなどが一堂にかいして競い合う。

まさに名作である。

 

そして、このCMには歴代の名馬たちだけでなく、人が出てくる。

彼らは競馬場のコースを眺め、それぞれの名馬たちが活躍した時代とその頃の自分を照らし合わせていく。

 

あの馬を見ていたとき、わたしは恋をしていた。

あの馬が勝った日、僕は故郷を離れた。

あの馬の引退の日、私は花嫁の父となった。

 

彼らは想いを募らせる。

そして、夢の第11レースはスタートするのだ。

 

そう。

人は競走馬たちに自分の想いを載せていくのだ。

馬も人間と同じように一頭一頭違う個性がある。

何度負けても頑張っている馬もいれば、勝ち続ける馬もいる。気性の荒い馬もいれば、大人しく真面目に走る馬もいる。白毛芦毛も栗毛もいる。

その中から自分のお気に入りの馬を見つけ、その馬に自分の頑張りの結果である「お金」を賭けて、1着になるように応援するのだ。

 

人はみな、様々な「想い」がある。

お金を稼ぎたい、あの人に告白したい、仕事で成功したい、あいつに勝ちたい、強くなりたい、病気を治したい、幸せになりたい。

 

それらの想いを、人は勝手に馬に乗せ、応援するのだ。

「勝ってくれ」と。

「走り切ってくれ」と。

 

純粋な馬であるからこそ「想い」は乗せれる。

だからこそ本気で応援し、本気で悔しがり、本気で喜ぶ。

競馬の魅力はそこに集約されていると僕は思う。

 

 

明日は日本ダービー

一年で一番、人の想いが集まる日である。

 

さあ、僕の想いも乗せて走っておくれ。

 

 

「大金持ちになりたい」

上司と僕の4つの人格(全員初老以上)

「君はブログを始めた方がいい」

 

今日、上司に言われたことだ。

そして、この上司は今日仕事を退職した。

平日はロボットのように働き、休日はキックボクシングをやっている変態だったが、彼の言ったことは正しかったのかもしれない。

僕は思考を言語化できないという課題があったからだ。

始めて恋を知ったロボットがその恋心を言語化できないように。

愛されないで育ったヤンキーが始めて人に抱きしめられたときのように。

僕が思考を言語化できているのは「うまい!」「腹減った」「疲れた」「おっぱい柔らかい」の4ワードだけだ。

ブログを書くのは思考を言語化するためのトレーニングのためである。

 

「またあんたそんなこと言って。どうせ続かないんでしょ?」

僕の中の第2の人格である純子が言った。

「前に彼女にフラれた時に買ったギターも、友達に勧められて始めたゴルフも、モテたいって始めた筋トレも、全部すぐに辞めちゃったじゃない」

純子は常に厳しい言葉を僕に投げかけてくる。

「うるせえ!45のババアが!サッサッとクタバレ垂れ乳首!」

僕は純子を親しみを込めて「垂れ乳首」と呼んでいる。もしくは「美魔女と呼ばれたいだけの豚」と呼んでいる。

 

「お金もないのにそんなことをしてる暇があるのかい?」

僕の第3の人格である文雄が言った。

文雄は56歳の男性で妻と離婚した上に親権も取られ、毎月の養育費を送る生活をしている。

文雄はその歳で未だに真性包茎の人を馬鹿にして笑う癖がある。ちなみに彼は仮性包茎だ。

 

「やりたきゃやらせればいいさ」

僕の第4の人格である清重が言った。

清重の歯は全てなく、毎日大量の耳くそが取れる。

寿司屋に行くといなり寿司しか食べないので職人から嫌われてることで有名だ。

 

「そうよ、坊やの好きにやるのが一番なんだから。私は応援してるわよ」

僕の第5の人格であるジェニファーが言った。

ジェニファーは僕を後ろから抱きしめて頭にVカップの巨乳を押し付けてくる。

ジェニファーは今年で86歳になる。

 

僕は立ち上がり彼らに「ありがとう」と呟いた。

彼らは笑顔で僕を見送っていく。

辛い時、悲しい時、挫けそうな時、彼らが僕に勇気を与えてくれる。

自分よりクズな人を見ると落ち着く。安心できる。また明日からもやっていける。

 

彼らは何も生み出さない。有益な情報をくれることもない。彼らから学ぶことは何一つない。

そう彼らは僕である。

僕が頑張らないと彼らも変われない。変わらない。

 

僕はこのブログを使って頭の中にあるグチャグチャを整理していこうと思っている。

いまこれまで書いたことで整理されたことは一つもない。思考を言語化するトレーニングどころじゃない。思考そのものがダメだったようだ。

 

テレビではスタンドバイミーが流れている。

いまちょうど死体を見つけたシーンだ。

この映画の良さを言語化することもできない。

いつかスタンドバイミーの良さを言語化できるといいなと思う。

 

上司よ見ているかい?

僕は一生懸命ブログを書いてるよ。